【まちなかストーリー】backwardlab(バックワードラボ)白谷直樹さん 第2話「首都圏と浜松、それぞれの拠点の良いところ」

まちなかで活躍する人にスポットを当てて、そのヒトの街に対する想いや物語を紹介する「マチナカストーリー」。
前回の株式会社 大と小とレフの鈴木一郎太さんから紹介いただき、9人目はbackwardlab(バックワードラボ/株式会社バーフェイズ)の白谷直樹さん。全4回に分けて、毎週お届けしていきます。

今週は第2話「首都圏と浜松、それぞれの拠点の良いところ」についてお話していただきました。

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人物紹介


白谷直樹さん

福岡県出身、都内でメンズアパレルブランドを起業。中目黒、北青山にお店を出した後、現在は藤沢市辻堂に事務所を構える。今後の方向性の再考とライフスタイルの見直しを提案するべく、万年橋パークビルの7Fのキューブ型テナントCUBESCAPEに入居。浜松にも拠点を持ち3拠点生活を始める。4月7日よりアトリエ兼店舗 backwardlab(バックワードラボ)を週末中心にオープン。ちなみに高校時代はボート部で、SUP(スタンドアップパドルボード)や自転車、バイクも好き。

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第2話「首都圏と浜松、それぞれの拠点の良いところ」

ーーアパレルの仕事では企画からデザインをされて、製品を作るという感じですか。

そうです。それで先程の話の繋がりになっていきます。それじゃあここではどういう風にして商売を成立させるかっていう話ですね。
基本、僕はWebでもいいじゃないかと思っているんですよ。

それで、僕自身は、今はバッグを作っています。ここで新しい商品っていうとここらへんですね。


ブルーのリュックサック。シンプルなデザインで、かなり丈夫そうな作り。

 

リュックとかバックパックっていうのを1番最初に作りたかったので、それをやろうと思っていて。

それで、例えば東京で家賃を50万円、100万円みたいなところでバッグだけでやりますって結構大変です。在庫のことも考えるとそれも大変。全てコストに乗ってきます。実際に使っていただける人に一番負担をかけてしまう現実があります。

でも、店舗を持って看板を掲げてっていうのは形としては、1番分かりやすいですよね。

だけど、僕個人はそれを東京ではできないとなると、できる場所はどこだ?って考えた時に、ここでこういう形だったらありかもしれないなと思ってやっています。

今後、自分のブランドとして洋服ももちろん作るかもしれないですけど、春夏の今シーズンのコレクションはこれです!みたいなトレンドを”過剰に意識する”感じにはもうやるつもりはないですね。

今は、1品番とか1アイテムとかをじっくりやるっていう考え方に変わっています。
ここ浜松でも、そういうものを欲しいって方はいるんじゃないかなと思っています。

まあ…、洋服たくさん作りすぎたので(笑)
そろそろ新しい価値観で新しい事をと思っています。

これだけファストファッションが増えていて、一般的にはこの程度のこういうので十分だろうと思われていますよね。なので、そうじゃないところで何かやろうと思ったら、古臭いですけど、「思いがこもった手作業」とかが欲しくなります。

または例えば、これは質が素晴らしい、これはめちゃくちゃ高いけど、すごく良い革を使っているとか。
ベクトルとしては、そういう様々な価値観があってもいいと思います。

なにか、ある程度思いがちゃんとしっかりしている物がいいなと思っています。

ーーそういった思いを共有できるツールがWebですよね。インターネットが発達してきたおかげで、この商品の背景だったり、作り手の思いとかを知ることが容易になっています。

そうですね。大きな事を考えているわけではないですが、地方創生とか。ですけど、考え方ってそれが1番いいんじゃないかなって思うんですよ。

東京という地域は、やっぱり発信力や注目度は圧倒的なものがあるので、全く無視する訳にはいかないです。ですが、場所があって、好きなことを表現できて、それを発信するのがWeb中心みたいなの考え方だとすれば、地方で何かをやろうっていうのはまだまだ大いに可能性がありそうだなって思います。

東京で若い子が独立起業しても、なかなか続きにくいですよね。やはり、経費とかコスト面の問題がありますから。

ーーそのコストを賄うために、自分のビジョンとは違う、ブレたようなサイクルでも回していかなくちゃいけないというループに陥りやすいんですね

そうですね。当時は経営を回しているという感覚が強かったですね。なので、面白くないことが多くなっていきました。もちろん個人の能力の問題だと思いますけどね。

ーーインフラはもう既に整っているから、昔に比べると首都圏が絶対重要というわけでもなくなってきていますよね

なおさら、フィジカルな感じになっていますよね。だから、実際に首都圏から郊外に移動する。情報が途絶えるとかそういう感覚が、今、僕個人にとっては良い意味で想像力が掻き立てられます。

だから、今はとりあえず週末浜松に来てここを開けています。今後どういう形態に流れていくかは、詳細はまだまだこれから決めていかなくちゃならないですが。こうして実際に、移動したり来たりする事が非常に面白い。

そういう場所が、1つの職場になればいいなって思いますね。

ーー情報が途絶えるって実は良いことで、意図的に適度な情報遮断をすることは大事ですよね。首都圏にいることの弊害として、情報を知りすぎてしまうことも害だと思っています。(浜松つーしん鳥居)

本当にそうですね。全くその通りだと思います。SUPが好きになってハマった理由がまさにそれなんですよ。周りは海で、何もない状況に強制的に置かれる。

インターネットが発達していなかった時代は、誰よりも先に情報を集めていました。ファッションの仕事なので、海外の雑誌やテレビもチェックして。

でも、それらが簡単に手に入る時代になっちゃって。今度はキュレーションの時代になりましたよね。すると、キュレーションするにも今は情報が多すぎる状態になっていて。さらに、価値も多様化していて。

そうなっていくと、1回バサッと遮断しないと訳が分からなくなってくるんですよ。

僕としてはフィジカルなものに価値を見出して、かといってテックの部分を拒否するのではなくて、使い方を工夫したり、そういう距離感でいけたらいいかなと思っています。

…というのも、ホントに鬱になりかけましたもんね。僕は鬱なんかには全くならないタイプだと思ってたんですよ。人間不信みたいなこともありましたけど、そういう重たい話というよりは、総合的にですね。

多すぎる情報を前に、「どうなってるの?これ」。みたいな疑問がバンバンでてきてしまって。あれ?あれ?あれ?の連鎖反応みたいな。なんかうまくいかないな。そうなるともうダメで。

でも、僕が鬱にならなかった大きなポイントは、じゃあもう投げちゃえって(笑)そう判断しちゃった。そういうタイプの人は、たぶん最終的には鬱にならないのでしょうね。

ずっと気にして答えを追いかけ始めるとダメで。適度に無理って切り捨てないと。

ーー知らない勇気が必要ですよね。

そうそう、知らない勇気ですよ。能動的に知らないようにする。難しい判断ですが、とても大事なことだと思います。

ーーアパレルに携わっていた時に、産元(サンモト)として見た浜松はどんなイメージでしたか?

それこそ、機屋(ハタヤ)さんとか染屋(ソメヤ)さんとか位でしたね。
それで、実際に街に来ていろんな人達と話す様になって、いろいろと面白いなと思ったし、あとは、人がオープンだなって感じましたね。受け入れてくれる感覚、浜松はそれがすごくいいなと思いました。

ここのゆりの木通りは洋服屋さんが多かったので、僕としてはすごく親和性が高かったです。
もちろん、実は何年も前の取引先の方もいて。顔見知りの方も少しいて。そういうのもあって親和性もあって、すっと入っていきやすかったです。

——浜松の食べ物や文化はどうでした?

それこそ、浜松はうなぎとか言いますけど、僕はだいぶ経ってから浜松のうなぎを食べました。実は浜松餃子も知らなかった、そうなんだ、有名なんだって。
申し訳ないですけど、情報的な事ではあまり知らなかったんですよ。

うなぎパイはもちろん知っていましたけどね(笑)
うなぎパイ=浜松のお土産という知名度、すごいですよ。

なので、浜松については、今でこそ直虎とか文化的なこととかを興味を持って見たりします。けれども、そういうことよりは、とある地方都市で、海があって、山があって、湖があって。どうやって活性化していこう?自ら変わっていこう?という様に出会えた感じですね。

だから、鍵屋(カギヤ)ビルさんも、あのような建物自体が残ってることにびっくりしましたし、旧文泉堂さんビルとかもそうでしたし、乾物の丸喜屋(マルキヤ)さんの昭和レトロな部分にぐっときました。

東京にいるとそう簡単には出会えない、真っ先に無くなってしまう。浜松は街並みがいい意味でちゃんと残っている感じがすごく良いですよね。

その中でもリノベーションっていうのは、結構最初に引っかかったポイントでした。
誤解を招くかもしれないですが、リノベーションってちょっと流行った言葉になっちゃったじゃないですか。何でもかんでもリノベーションって。

そういう意味でリノベーションに引っかかった訳ではなくて、ちゃんとした正しい感じのリノベーションだと思ったんですね。本当にちゃんとしているなって。言葉だと難しいですが、こう、表面的でチャラくやってないなって。

それこそ、CUBESCAPEの監修、運営管理者であるDAJIBAの彌田(ヤダ)さんとかそういう仕事をやっていますし、リノベーションとかもやっていて。なので、街の文化的なものよりも先に、人に興味が湧きました。

ーーアパレルの工程と白谷さんのお仕事ついて教えてください

基本的には全行程に関わっています。企画が1番最初で、縫製するのは工場で、パタンナーさんがパターン作ってきたのを汲んで、これでいいか指示をしていくのも僕です。

ーーちなみにパターン作ったり縫製をするのは東京の方なんですか?

工場によって得意不得意があるので、アイテムによりますね。
デニムが得意だったり、カットソーが得意だったり…

持っているミシンによっても仕様が変わってくるんですよ。
例えばジーンズの巻き縫いみたいなのはジーンズ工場じゃないと縫製できなかったりします。そういういろんな工場とお付き合いさせていただいて。

でも、これがなかなか大変です。工場の方も他の国の工場もあるので。やはり、圧倒的な価格帯の差があるので。

日本で普通にジーンズ、パンツを作ってある程度利益を確保しようとしたらおそらく2万円以下では出せないと思います。何万本も作っているかとか、そういうことをしないと難しいですね。

ーーご出身は東京でしたっけ?アパレルの仕事をしようと思ったきっかけは?

僕は福岡です。大学で上京しまして。住んでいたのは、横浜もいれると24~25年間で1番長いんですけどね。

大学在学中です。田舎モンだったので都会が楽しくて。遊び友達がそういうアパレル業界の人が多かったのがきっかけです。それで勉強をし始めて、そしたらそっちの方が楽しくなっちゃって、ついには大学も辞めちゃって。親はもうブチ切れでしたね(笑)

それで、仕事をしていたらホントに面白くなってきて、ブランドに入って、そこから本格的に。当時は独立しようなんて思っていませんでしたが、そのブランドに入った時にデザイナーの考え方とかを勉強させてもらいました。「ものづくりとはなんぞや」っていうことを勉強させてもらって、それでやってみようかなと。そういうスタートでしたね。

ーー学校はデザイン選考とかではなかっかんですね。高校時代はなにか部活とかやってた事はありましたか?

社会学部でした。潰しの効く学部です(笑)

高校時代はマイナーなんですけど、ボート競技をやっていました。
福岡出身ですけど、高校だけ熊本でした。熊本のボートの強豪校に進学して。まあしんどかったですよね。

でも、高校のボート競技自体はマイナーですよね。大学だともう少しメジャーになりますけど、大学進学してボートを続けなかったです。でも今考えると水や海との親和性はその頃からだったかもしれません。

ーー大学で上京したことがアパレル業界に入るきっかけだったんですね

そうですね。見るもの何もかもが新鮮でした。
しかも、僕3月で47歳になりますが、学生の頃はバブル経済真っ最中のころで。
僕はお金持ってなかったけど、街はお金に溢れている時代でした。

なので、お偉いさん達がいろんなところに連れてってくれて。だから自分達で能動的にお金を稼いだりはしなかった。でも、気がついたら、何かいいものを食べさせてもらっているなとかそういう事はありました。不思議でした。


今回はここまで!
次回、白谷直樹さん第3話公開は4/14の予定です。お楽しみに!

インタビューア:Any 伊藤
記事編集者:浜松つーしん  鳥居