「まちのしごと、まちのひと。」Vol.14 古橋 通悦さん
- まちなかストーリー
- 2026.07.11
浜松まちなかで活動する人・働く人にスポットを当てたコーナー「まちのしごと、まちのひと。」
そのヒトの想いや活動など「ヒト」にフォーカスをしたストーリーを紹介していきます。
第13回目は、
一瀬堂際物店の 古橋 通悦 さん
にお話しをお伺いしてきました。

目次
自己紹介をお願いします!
浜松市出身です。高校まで吹奏楽部に所属しクラリネットを演奏しておりました。卒業後は東京にある音楽関係の専門学校に進学しました。在学期間も含め数年東京で生活した後、浜松に帰郷しました。その後は家業の仕事(際物店)もしつつ、ホテル業界など自分の興味のある仕事を兼業しておりました。中学生の頃から家業を手伝ってはおりましたが、真剣にその道に入る事を考えだしたのは20代半ばの頃。『この仕事は後世へ残していかなきゃいけないものだな』と強く思うようになり、本格的に家業に入り25年程たちました。
ーー左)先祖代々続く伝統ある仕事を、守り受け継いでいる古橋さん。その仕事内容については次項で詳しくお話頂きます!右)高校時代から続けているクラリネットは、今でもプロムナードコンサートなどで演奏しているそうです。
一瀬堂際物店はどんなお店ですか?
「際物」と呼ばれる季節の行事用品を、1つ1つ手作業で制作し販売をしているお店です。このお店は明治14年に一瀬亀太郎が創業し、今年で145年目になります。創業当時は各地で祭りが多く、祭りや盆の飾り、破魔弓、浜松祭りの大凧、花輪など作っておりました。創業者の亀太郎さんには弟子がたくさん居たのですが、その中で一番末っ子の弟子が私の祖父でした。上の兄弟子達は皆独立し、昭和6年に私の祖父が一瀬堂を引継ぎました。祖父の代からは雛人形や五月人形も新しく制作販売をするようになりました。店舗が戦火により焼失し建て直しをしたりと怒涛の時代ではありましたが、高度経済成長期の波に乗り、雛人形や五月人形の売れ行きは好調でした。その他にも鯉のぼりやお盆用品、回転花やお葬式時の花などその時々の地域の皆様に必要とされる物を作ってきました。
ーー左・中)田町にあった一瀬堂の店舗。地域の方々に愛されるお店だったことが写真からも伝わってきます。右)当時浜松には際物店が3~4軒ありましたが、浜松の各町内のたこ揚げ用の凧の約半数程は一瀬堂が作っていたそうで、皆総動員で連日夜明かしの作業だったそうです。
現在は五月人形やひな人形の販売は終了し、大凧と軒花をメインにお盆用品や開店花輪の制作もしております。季節物ですので一年の中で制作するものが変化します。1月~4月頃は浜松祭りで使われる大凧作り、5月~9月は夏祭りや秋祭りで使われる軒花やお盆用品の制作、そして9月中旬頃~12月は大凧に使われる竹を加工する作業が主となります。その他にも慶弔それぞれの花輪なども請け負っております。
ーー開店花輪や初盆を迎える方へお盆用品の販売もされているそうです。現代ではなかなか頼む機会も減った季節用品ではありますが、祝い事・祭事の際には既製品ではなく職人の心のこもった用品を頼んでみるのも良いですね。
大凧作りの工程を教えてください。
最初に骨組みに使われる竹を加工します。凧は主に障子骨(しょうじぼね)、親骨/横骨(おやぼね/よこぼね)、筋交(すじかい)、そして尾骨(おぼね)で構成されています。使う竹の種類はそれぞれの骨で違います。障子骨には男竹(真竹)と呼ばれる緑色の太い竹を使い、親骨、筋交、尾竹には女竹(メダケ)という、細身で軽量な竹を使っています。男竹は1つ1つなたで割いてヒゴにし、鉋(カンナ)をかけて仕上げます。昔は割いたらすぐ組み立てをしていましたが、水気が残っていると凧が重くなるというお声と、枯らし過ぎると竹本来の強度が落ちることから、現在は加工後1年程寝かしてから使うようになりました。
続いて組み立ての工程です。縦骨と横骨を等間隔で結び障子骨を作ります。その後横骨を補強する形で親骨を、対角線上に筋交をつけると骨組みの下準備は完成です。そして凧のサイズに合うよう和紙を貼り合わせたものを、障子骨に貼って乾かします。文字や絵の下書きをもとに色を塗ります。絵柄は染料をそのままのせると滲んでしまう為、先に蝋で模様の縁取りをしています。最後は出荷前に尾竹を取り付けて完成です。 私共で作るのはここまでになりまして、その後各町に凧を引き渡し、各町の方々で糸目付けという流れになります。
昨今苦労しているのは材料の仕入れです。昔から使ってきた材料を、出来るだけ今の時代に残していきたいと想っています。ですが各資材を作っている職人さんも減っていく中、試行錯誤をしながら資材を集めています。現在は竹は千葉県から、手漉きの和紙は四国の和紙を使っています。
ーー2026年現在、一瀬堂さんでは浜松祭りに参加している174ヵ町の内80ヵ町程の大凧を作っているそう。凧専門店として現存し商売を続けているお店は全国的に見てもかなり珍しくなり、浜松でも一瀬堂さんを含む2店舗のみとなってしまったそうです。
大凧に描かれる絵はどうやって決めているのですか?
浜松の凧は明治期以降発展したと言われています。その中で凧に描くものを「この町はこの印」と固定され、現在の形に近くなったのは大正時代ぐらいからだそうです。それまでは頻繁に絵が変わっていたり、初凧(初子の名前と家紋)や町の印というよりは、酒屋さんだったら酒樽の絵。というような決め方でした。その後大正時代以降から今の形が主流になってきて、町の印や初子の家紋や名を入れるようになったそうです。
余談ですが、当時は凧揚げ合戦は5日間開催をしていました。5月2日はまだ学校が半日あったので、午後から参加したり、終わりも15時~16時ぐらいまでと割とのんびりとお祭りが行われていました。

ーー現在は中田島砂丘で盛大に行われる凧あげ合戦も、始まりの頃は各町で各々が揚げていたそう。その後大正3年に各町の代表による統監部が結成され、和地山公園で継続的に開催されるようになったのが大正7年の事。第二次世界大戦が始まる直前まで毎年開催されていました。 終戦後は昭和23年より復活し、昭和25年には商工会によって「浜松まつり」と名称が設定されました。その後3日間へ開催期間の短縮等の変更を経て、昭和42年に現在の中田島会場へと凧揚げ会場が移転されました。
5月~9月は軒花も作られているとか?
はい。祭礼時に家の軒先や提灯に飾られる紙製の花飾り「軒花」も1つ1つ手作りで作っています。凧を制作する時に出る、凧には使えない部分の竹を使い、軒花用のヒゴを作ります。そして書道半紙を花模様になるように、ピンクの液につけていき、それを2枚貼り合わせたものを竹に貼っていくと完成します。最近は同業のお店も減ってきて、総数でいうと年間27~8万本ぐらい作っていると思います。
ーー左)私の取材時は軒花の制作が真っ只中。中)この写真の数の何倍もの数が並んでいて圧巻の図でした。右)夏祭りなどで使われる軒花。皆さんも地域のお祭りに参加される際に是非気にして見てみてくださいね‼
最後この記事を読んでくれている方にメッセージなどあれば教えてください
現代は「原価を抑え、効率良く、大量に物を作れる」時代です。一方私たちが作っているものは「昔から変わらない材料や技法を使い、1つ1つ心を込めて作る事」を大切にしています。私達のやり方は今の時代には逆行するものかもしれません。和紙に拘らず安いものを、竹は海外で加工したものを仕入れた方が楽で安い等々「もっと効率化出来るんじゃない?」といったお声を頂く事もありました。それでも勝手に変えて良い物と、勝手に変えてはいけない物があると私は思っています。もちろん日々の葛藤はありますが、伝統工業の1つを担う身として後世へ残していきたいと思っています。
既に活動しているものもありますが、今後「お祭りをやっている方の応援」「学生の部活動の一環として凧作りの監修」「地域イベントのお手伝い」「全国の凧・凧屋さんの文化の継承」などにも力をいれていけたらなと考えています。興味がある方がいらっしゃいましたら是非お声掛けください!
ーーもっと凧について知りたい方は古橋さんのInstagramへ。↑から飛べます。
ーーさらに浜松を舞台にした映画「イニシャライズ」に、古橋さんのお店「一瀬堂」も撮影場所として登場します。こちらの公開も2026年中予定とのことなので「initialize_official」をチェックして是非ご覧ください!
古橋さん、貴重なお話を有難うございました。















